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作品のご紹介
知恵の木の解説
知恵の木 について、フェイスブックで絵を紹介したときに、詩人の 佐々木 洋 先生 が、まわりに書いた、ルイアラゴンのCの詩について解説してくださった時の文章のご紹介です。
Yoh Sasaki
お、ルイ・アラゴンですね。いい詩です。「傷ついた騎士」と「フランスの第二次大戦での敗北」がダブルイメージとなって読む者の心に迫りますね。
小澤 摩純
さすが、佐々木先生。ルイ、アラゴンの詩だと、すぐに気づいて頂き、嬉しいです。
Cは、シュールレアリズム的詩の中でも、特に好きなものなのです。
僕は渡った。
セーの橋を。
そこから全てがはじまった。
過ぎた昔の歌にある、傷を負った騎士のこと。
堤に咲いた、薔薇のこと。
紐の解けた、ボディスのこと。
気のふれた公爵の城のこと。
お濠に群れる白鳥のこと……
Yoh Sasaki
この詩はシュルレアリズムの実験の後、ナチスドイツのフランス占領という現実世界での苦難を体験した後のアラゴンが、ロワール川に架かるセーの橋に託して祖国フランスへの想いをささやかな「叙事詩」として描いた作品であると思います。
セーの橋とそこに想いを残す騎士たちの心がシュルレアリズム的に断片化されたイマージュの中に幾層にも詰まっているように見えます。
小澤 摩純
悲しみを突き抜けた、ぽっかりとした青空に浮かぶ雲のような詩だなぁと、以前から思っていました。
今回、知恵と戦いと芸術の女神アテナの眷属としての梟を、この世界が混沌に向かって進んでいく中、静かに世界を見続けている姿として、描いてみました。
Yoh Sasaki
ぽっかりとした蒼空に浮かぶ雲というイメージはまさに同感です。
中世の傷ついた騎士の悲しみ、ナチスドイツに屈辱的に降伏した祖国フランス、これら時代を超えて幾重にも錯綜する悲しみの上には何故か虚無感にも似た心の穴が蒼々と開いているのかもしれません。
原詩を読むと面白いことにこうなっています。
J’ai traversé les ponts de Cé
C’est là que tout a commencé
Une chanson des temps passés
Parle d’un chevalier blessé
D’une rose sur la chaussée…
つまりこの作品は最初から最後まで見事に/e/音で脚韻が踏まれているのです。
これは単なる音の統一というものではないと思います。
古典詩人ならともかく、シュルレアリスムの旗頭の一人であったアラゴンは敢えてこのように脚韻を踏むことによって音が醸し出す効果、つまり過去分詞が創り出すこれら全ての出来事は過去において「終わってしまった」という意味合いを出したかったのだと思います。
この詩が書かれたのが戦後7年も経ってからであるということも併せて考えると、こうした悲劇はかつてこの国に数多くあった。
そしてその悲しみ、傷みは決して癒えたわけではない。
しかし今ロワール川にはまるで何もなかったようにセーの橋が架かり、蒼空を雲たちが次々にいとも軽やかに流れていくよ・・・とこの/e/音の脚韻は語っているかのように思えるのです。
そのロワールの岸辺の大木に知恵の象徴である梟が何羽もとまって現在と未来を監視しているかのように見える今回のこのお作は、アラゴンの詩をさらに先へと押し進め、独特なエニグマの網を観る者の頭上に投げかけているかのように私には思われます。
※ 佐々木 洋 詩人 ピエール・ルヴェルディ詩集の訳者